2008年06月17日

見たくない物を見る権利

たまたま付けたTVの番組がどう見てもつまらなかったとして、取れる行動は以下の2つがあると思う。

  • つまらないと思いながら最後まで見る
  • 時間の無駄なので途中で切り上げる

もちろんつまらないと思いながら見るのは自由だし、見終わった後に「つまらない」「最悪」と言って回る自由もあるんだけど、個人的には後者を選ぶ。見るか見ないかの選択権は自分にあるのだから、特に目的がない限り面白くないものにつきあう必要性が見あたらないので。*1

WebサイトやBlogなんかも同じで、例えRSSリーダーに登録していたりブックマークに入れていたとしても、すべての記事が面白いとは限らない。もしかしたら「全部読まなきゃならない」みたいな義務感があるのだろうか?

別にそれを否定するつもりはないけど、元々Webの情報はノイズが多いので、適度なところで取捨選択した方が精神的にはいいかなとは思う。*2

*1:駄作自体を「ネタ」として楽しむ場合もあるけど、それはまた別の話。

*2:オフ会レポートという「例」に別の意味もあるのかもしれないけど、ここでは触れない。

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本当に足りないのは努力ではない

「努力が足りない」というのはどういう状態かというお話。

  • 努力というのは目的を達成するための手段である。
  • 目的が達成できるならば努力する・しないはあまり関係ない。
    • 目的・経験・素養・時間・環境などで目的が達成できるかどうかの状態は大きく変わる。
    • 無駄な努力や手間をなるべく減らそうというのがライフハック。
      • 努力しないための努力という気もするが、多分言葉遊びの範疇に入る。
  • 目的が達成できなかったからこそ「努力が足りない」という状態が発生する。
  • 努力には内部的な努力、外部的な努力がある。
    • 内部的な努力は「自分が努力していると感じているか」
    • 外部的な努力は「努力しているように見えるか」
  • 努力のパターンとしては以下のものがある。
    1. 自分は努力していると感じている / 周囲から努力しているように見える
    2. 自分は努力していると感じている / 周囲から努力していないように見える
    3. 自分は努力していると感じていない / 周囲から努力しているように見える
    4. 自分は努力していると感じていない / 周囲から努力していないように見える
  • 自分から見た努力は1・2
  • 他人から見た努力は1・3
    • 1と4以外は立ち位置によって認識のずれが起こるため、そこが齟齬の要因になっていると思われる。
  • しかし「努力が足りているかどうか」という物差しで測る場合、「量」の問題なので1〜4のどれでも大した違いはない。
    • 要するに1であっても量が足りない。
  • 努力の量を定義する方法はないし、そもそも量が増えれば目的が達成できるかは別問題である。
    • 時間は計ることができるが時間量 ≠ 努力量。

結論

「努力が足りない」というのは何かをいっているようで、実は何もいってない。強いてわかるのは「目的が達成できていない」という状態と、「結果を出せ」というメッセージ。結果を出せば努力は足りるのだから、基本的に0か1しかないデジタルな考え方である。*1要するに足りないのは結果だけということ。

*1:努力すれば必ず報われるわけではないのは当然。ただ、こういう物言いをするならば、少なくとも言った本人は努力で目的が達成できると考えているはず。

タグ:社会 雑感 努力
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2008年05月26日

「言論の自由」の大きな勘違い

ヌル言論封殺とガチ言論封殺 - ビジネスから1000000光年を読んで。あ、最初にいっておくと反論でもなんでも無いです。ネタ元がここだというだけで。

日本は(少なくとも建前上は)言論の自由が保障されている。だから「国家権力ファック」なんて言える自由がある。でも勘違いしてはいけないのは、「言論の自由」が保証されているからといって、「言論のための自由行動」が許されているわけじゃないということ。

だから「国家権力ファック」と主張することはできるけど、拡声器を使って近所に「国家権力ファック」と大声で叫び続けることはできない。迷惑だから。同じように関係者以外の立ち入りが禁止されているところで、勝手に立ち入って「国家権力ファック」と大声で叫ぶこともできない。関係者じゃないから。

目的は手段を正当化しません。少なくとも法治国家では。

もう一つ勘違いが多いのが、「発言によって社会的制裁を受ける場合があるから自由ではない」という意見。これは自由がどうのこうのということではなくて、単純に「発言には責任を伴うよ」というだけの話です。

例えば政治家や企業のお偉いさん*1が記者会見で酷い差別発言をしたらどうなるでしょうか?間違いなく何らかの責任をとることになるでしょうし、場合によっては辞任や退職になるかもしれません。

でもこれは発言内容の責任をとっただけですね。「言論の自由」は「何でも好き勝手に言って責任をとらなくていい自由」ではないはずです。*2

まとめると

  • 日本では言論の自由が(とりあえずは)ある。
    • でも方法を選ばずに自由に発言できるわけではない。
    • 発言する以上その発言にも責任をとらないといけない。*3
  • 発言によっては反論が来ます。しかも大量の。

ということですね。ここを勘違いすると「俺の発言が言論封殺されている」と思ってしまうのかもしれません。

*1:に限る必要はないけどとりあえず。

*2:空気を読めという無言の圧力が……みたいな話はあるかもしれませんが、それはまた別の話。

*3:ただ匿名の誹謗中傷は責任をとってないので、この辺りは問題になっていますが。

タグ:社会 言論
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