2010年04月13日

「読書感想文を書くのが苦手すぎて死ぬ」関連

知り合いとの話の中で「子供の頃の読書感想文で死ぬほど苦労した。今でも書ける気がしない」みたいな会話の流れになって、それが面白かったのでメモ。

「本が面白くない時点で死ぬ」問題

(真面目に)書くためにはまず本を読まないといけないが、これはそもそも「感想文を書く」ために読んでるのでその時点で苦痛。任意の本を選べる場合はいいが、「指定図書の中から選べ」という形になるとタイトルと作者名だけを頼りに読む本を選定することになり、それが運悪く(本人にとって)つまらないとなるともう絶望的。作品として執筆年、あるいは時代設定が変に古いものが多く、「子供心に読んでも感情移入どころか意味不明に感じることが多かった」という話も出てきた。

脱線して「なぜ子供の頃読むと(名作と呼ばれるようなものでも)つまらないと感じることが多いのか」という話になったが、単純に「子供なので知識量もボキャブラリーも少なく文章を理解しにくい」というのが一つ。それとは別に「(人生の)経験量が少ないので感情移入のきっかけになるトリガの量が少なく、内容のシチュエーションを自分に投影しにくい。従って読み進めても何も感じず、何が『面白い』のかよくわからないまま終わるのでは」みたいな話が出てきた。この部分の裏を返せば、よく言われる「年を取ると涙もろくなる(=感情が揺さぶられやすくなる)」というのも「(年を取ると)経験が増えて感情移入トリガが増えるのが原因じゃないか」みたいな考え方もできそうな感じだが、あくまで脱線部分なので以下略。

「字数ノルマが達成できない」問題

基本的に感想と言えば「面白い」とか「つまらない」ぐらいで十分で、そもそも大したものは求められない。たとえばネット上にはアニメや漫画なんかの様々な「感想(ページ)」がアップされているが、画像キャプチャやスラングを交えつつも大概「(ここが)面白かった」「次回にも期待」程度で読書感想文のようなものはほとんどない。字数が多くなるのはもっぱら「批評」や「分析」や「レビュー」、「(作品を元にした)自分語り」あるいは「書評」などで、広義には感想かも知れないがあまり同一の扱いはされていない。

読書感想文に話を戻すと、当然「感想文」なので感想のみを書きたくなるが、それだけだと字数ノルマに全く届かない。「面白かった」(あるいは「つまらなかった」)では原稿用紙が白すぎるため、何とかあらすじで字数を稼いだうえ、最後の方に申し訳ない程度に感想を書く……というテンプレ的行動に走るしかなくなる。もちろんこれは「感想文」としては残念な出来という評価になり、頭をひねって苦労した割には報われないという形になってしまう。要するに「ただの感想を書く」という点から見ると、「原稿用紙最低○枚」などと設定された課題はバランスを欠いている。

とはいえ今から考えればわかるが、読書感想文は(少なくとも高評価をされるには)「愚直に作品の感想を書くもの」ではない。恐らく明確な定義はないだろうが、個人的には「本を読んで受けた自分への好影響の発表(例:感動した、考えさせられた、自分の未熟さを再認識させられた 等)とそれによる今後のスローガンの作成(例:主人公の勇気を見習いたい、努力は報われるんだと思いました、○○のようにはなりたくないと感じました 等)」辺りではないかと思っている。つまり「感想を書く」というものがあくまで建前だと見抜き、実際の「書籍をダシにして『本を読んで成長した生徒』を演じる美辞麗句な文章を適切に構成できるか」を子供ながらに見抜けるかどうかが、読書感想文作成の難易度を左右するということになる。

さらにひねった考えをすれば「感想を書け」という無味乾燥とした課題の行間を読み、明確に提示されない「(出題の)本音」を察すること自体が読書感想文作成の目的の一つである……と考えたら面白いかもしれないが、さすがに脱線のしすぎなので以下略。

「真面目に書く奴がアホ」問題

  • どうせ採点する教師は本を読んでないんだから、前書きと後書きだけ読んで適当に書けよ
  • (評価を気にせず)あらすじを書けばいいじゃん
  • 今の時代はコピペできる感想文が用意されてるよ!!

なるほど、正しい。確かにその通りだ。だがそれは「夏休みの宿題は回答がセットになってるから写せばいいだろ」みたいな話であって、テーマに沿っているとは言い難い。そもそもそういう手段を執るなら最初から苦労してないわけで、この話自体が存在していなかった可能性があるじゃないか、な。

タグ:一般 社会
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2009年09月17日

最近見た素晴らしい「努力」の定義

努力とは何か - 煩悩是道場

を見て思いだしたんだけれども、少し前にはてブで「(個人的には)これで決まりじゃね?」と思う努力の定義を見かけた。

何らかの成果が出た時、その成果を得る為にとった行動が努力として規定される。つまり、「成果が出た」時点から遡って、「努力をした」という過去が形成されるのだ。故に努力は必ず報われる

はてなブックマーク - 「努力報われる」半数に満たず 格差拡大 大学生冷めた見方(産経新聞) - Yahoo!ニュース

ほぼ同じことをいってるもの。

「努力すれば報われる」というのは全くのウソで、実際にはある「成功」が発生した時点からその成功者の過去を遡り、その現象をうまく説明できそうな適当な理由が発見された時、それが「努力」と定義される

Twitter / ls@usada

この定義なら成功しない限り「努力が足りない」といわれ続けるのに矛盾はないし、あるいは成功者へのインタビューなどでたまに見かける「(やっていたことは)全然努力(苦労)だとは思わなかった」という発言が別に謙遜でなくても不思議ではない。つまり元から努力の定義として「大変な思いをする」だとか「いっぱい苦労する」だとか「やりたくもないことをする」だとか「上からの命令にイエスマンになる」だとか「マニュアルを愚直に守る」辺りを持ち出して語るのは完全に的外れで、「成功した者が過去にとった行動が努力」と呼ばれているから「成功した者は全て努力している」という話が出てくるということになる。

良くいわれる「努力の正体が何なのかわからない」というのは、「現在進行形でおこなっている行為は、成功しない限り第三者から努力とは認定されないから」だろう。努力とは元々「後付けで成功原因を説明するためのメソッドだった」というのが個人的なまとめ。

タグ:言葉 web
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2009年04月21日

「才能の話をしているとなぜか努力の話を持ち出す人が出てくる」問題

才能があるとかないとかという話をしていると、なぜか「才能とは努力を続けることができる能力があることだ」などと言葉の定義をし直す人が出てきたり、あるいは「才能の話をしていたはずなのにいつの間にか社会的成功の話にテーマがすり替わっていたでござる」問題の話。

個人的な考えを書いておくと、「才能がある」という状態は「社会的(商業的)な成功」と直接的には何の関係もない。スタート地点が逆で「社会的に成功するためには何が必要か」というテーマなら「(何かの)才能がある」というのは条件の一つにはなりうるが、「才能の有無」がテーマなら「成功する」とか「飯が食える」とかその辺りの問題を持ち出す必要は何もない。「才能がある」というのは「手先が器用」とか「記憶力がいい」とか「足が速い」とかその辺りのことを言っているのと同じはずなのだから、「努力がどうの」とか「社会的に認められる」とかそんな話とは本来別問題のはず。*1

これは才能に関係する以下の状態を、個々が勝手に「才能」として定義して語っているからだと考えている。

  1. 才能がある
  2. 才能を発揮する(場所がある)
  3. 才能を発揮して評価される
  4. 発揮した才能で飯が食える
  5. 発揮した才能で商業的に(大)成功する

並べればわかるが、1から5はすべて別の話。1の状態は2の状態になることを保証しないし、2から3もその後も同じ。ただ、基本的に数字が増えるほどハードルが高くなり、椅子取りゲームが厳しくなるのは間違いない。*2

「努力がどうの」という話が絡んでくるのはこの段階を経ていく場合に関係してくるのであって、少なくとも1の段階では関係がない。また、そもそも時代によって1はともかく2から先が用意されていない「努力以前の問題」ということも十分にあり得る。

例えば読み書きに優れた才能を持っていたとしても、文字が普及する以前だったり、教育が一般化せず一部の特権階級やインテリ層しか文字が書けない・読めない時代(社会)ならどうしようもない。逆に大昔には役に立ったが、今はほとんど発揮する機会がない才能もたくさんあるのではないかと思う。

あとはなぜ「才能≒努力」的な発言をする人が出てくるのかいう問題になるが、これは「社会的に認められない才能は才能ではない」のような実利主義、または「努力したものこそ成功する」とか「懸命に努力すれば認められる」のような「努力賛美」「ポジティブ教」辺りが関係していそうな気がするが、よくはわからない。ただ少なくとも自分の定義では「才能を『継続した努力』と定義し直す必要はどこにもない」という結論になる。

*1:念のため書いておくと、努力(訓練)によって才能(技術)が磨かれる・向上するという話ともまた別。

*2:Webの普及によって、文才や画才などのWebに載せられるものならネット環境を用意すれば比較的簡単に2の段階まで持って行けるようにはなった。単純に総数だけ見れば3まで行くことも珍しくないのかもしれない。

*3:エントリそのものとはあまり関係がない。

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